あいつの存在を、一言で現せる言葉が、あるだろうか。
例えばそれは、決して暖かい色をした言葉ではない。あいつに関わることが、あいつを取り巻くすべてが、オレを暖めたことなど、一度としてない。それだけは断言できる。あいつはいつだって、オレを何処かへと駆り立てはしたが、オレを癒す何かを与えてくれる存在ではあり得なかった。
あいつを脳裏に浮かべることが、穏やかな感情をもたらすなどということが、あるはずがなかった。よく知ったその声も、口調も、もちろん話す言葉も、俺に救いを与えるものではあり得なかった。
ただ確かなことは、オレにとってあいつが。
どうしても、無くてはならない存在だということだけだ。
あいつはいつだって、対岸の灯火だった。
遠く、黒々とした水面の遥か遠く。闇夜を透かした向こう岸に、オレと同じ速度で走り続ける、一筋の光。
オレと同じ旗を掲げて、同じ闘志を抱えて走る戦友。
決して揺らがず、決して撓まない。近づくこともない代わりに、ほんの少しも遠ざかりはしない。
交わらぬ離れた岸を、同じ速さで、同じ高みに向かって。
あいつはいつだって、対岸の灯火としてそこにあった。
その日、数週間前に出した手紙に、返事が届いた。
不調というほどではなかったが、ここしばらく、練習の成果が思うように現れない日々が続いていた。オーバーワークを懸念して早めにトレーニングを切り上げた日、めったにない暇を持て余して、内容も無いざれ言を綴った手紙を出したことを、返答を受けて初めて思い出した。
反応があるとは、思っていなかったのだ。
宛て先を決めたのも、きっと黙殺されるだろうと分かっていたからだった。読みさえしないのではないか、と予想した。半分、それを期待してもいた。封も切らずに捨ててくれるなら、その方がいいとも考えていた。
たとえ読んだとしても、あの相手が時間を割いて用もないのに返事をしたためるなどという真似をするわけがないことも、知り尽くしていた。
なのに、忘れ去った頃になって。深夜、メールが舞い込んできた。
ほんの時々しか触らないノートパソコンの、さらにたまにしか開かない受信トレイを、訝しく思いながら覗いた。送信者はすぐに判った。おそらく相手はパソコン室での授業中だったのだろう。練習の時間は1秒たりとも疎かにしない代わりに、授業などの時間は有効に活用するのがテキの信条だった。きっと退屈で実にならない授業の時間を無駄にしないために、受け取った下らない手紙への返答に充てたのに違いない。
『こんな暇があるなら練習しろ』
たった、それだけだった。前置きも、署名すらない。直接会って話すときとまったく同じ、冷酷なほどの歯切れのよさだ。
見た瞬間、笑い出さずにはいられなかった。
───そう。それでこそ、だ。若島津。
あいつのことを思うとき、オレの胸中に去来する感情は、決して甘ったるいものではあり得なかった。むしろそれは、吹きすさぶ吹雪のイメージだ。乗り越えるべき嵐を、オレに想起させる。昇り詰めるべき頂点を、オレは雪のカーテンの向こうに卒然として見いだす。
それを掴んだときの高揚感を、オレは知っている。あいつも知っている。そこは誰にでも到達できる地平にはない。限られた者だけが、血を吐く思いで走り続けた者だけが、辿り着ける最果ての場所だ。
共有した過去の思い出は、思い出すだけで苛立ちの疼くような記憶ばかりだった。出来過ぎたような成功の連続だったオレのあの時代の、数少ない屈辱や辛酸の場面に、あいつは必ず居合わせた。それすらも、オレにとっては特別な事実だった。オレの挫折は、常にあいつの成功と隣り合わせていた時代があった。その事実は、オレに自分の現在立っている位置を確かめさせた。あいつの存在が、俺の足場を固めていた。そして同様に、オレの存在があいつの足場をも固めていることは疑いようもなかった。
あいつはオレの、対岸の灯火だ。
決して立ち止まらない。焔のごとく赫い旗を翻して、オレと同じ速さで疾る慥かな目印。
海のように広い水面越しに、風を切り裂いて輝く光明。
同じ頂点に向かって、同じ武器を手に戦う同志。
それだけで充分だった。他に何が必要だろうか。辿り着くために。走り続けるために。オレにどんな救けが要るというのだ。
思いを馳せることすら、必要ない。
オレが何を思わなくとも、その灯がそこに存在することは、揺らぐことのない事実なのだから。
オレが、故国に手紙を送ることは、それから二度となかった。
END./- wait until the blizzard comes -/
------------------- 2003.4.8./SUZUKAWA Hiroki/