起点 −若林−
 日差しを避けて木陰に背を凭せ、オレはグラウンドへじっと目を止めていた。
 ほんの少し前までそこで行われていた南葛対明和による決勝戦の、焼け付くまでの熱気に替わり、今は陽炎ばかりがゆるゆると立ち込めている。
 すでに表彰式も終わり、グラウンドでは整備が始められていた。
 南葛の他のメンバー達は帰り支度に宿舎へ戻っていたが、オレと岬は足の治療を受ける為最寄りの病院に行く事になり、コーチが車を回してくれるのを待っているところだった。
 詰め掛けていた観客もあらかた引き上げ、ざわめきに掻き消されていたセミの声がやけに耳に付いた。頭上の枝にも、途切れなく羽音が響いている。
 しかし先程まで全身を包んでいた様々な音の渦に比べれば、それはいっそ静かなくらいに感じられた。
 取り巻く歓声、仲間達の声、ボールの弾む音、耳を打つ自分の鼓動――
 それらが途切れてしまうと、激しく熱かった時間がずっと以前の事のような、まるで現実感を持たないもののようにすら思える。
 実際、あの試合についてほとんど覚えていなかった。
 足の痛みと苦しさに耐え、限界に近い中で懸命にゴールを守り通しはしたが、自分がどのように動いたのか、何本のシュートを止めたのかも定かではない。
 ただ、汗と共にまだ身体に纏わりつく興奮と、何か手の届かない所に貼りついた糸屑のみたいな引っ掛かりだけが、はっきりと胸に残っている。
 それは優勝を決めた瞬間の喜びや、明和の選手達と健闘を称え合った清々しさに一点の染みを落し、しだいにジワジワと暗い影を広げていた。
 そのものが何であるのかなんとなく分かっていたが、認めたくない意地もあり、なおの事後味が悪かった。

 そんなオレの冴えない表情を、隣に腰を下ろした岬が心配を押さえ切れない様子で覗き込む。
 「ねぇ若林くん。翼くん、間に合うかな――?」
 岬の声に、宙に置かれていた焦点を慌てて取り直す。
 決勝戦直後、手紙だけを残し姿を消したロベルトを追って空港に向かった翼を、岬は案じていた。
 今それとは別の事を考えていた自分にはっとし、ひどく罪悪感に囚われた。
 「追い付けるよね、きっと」
 「あ、ああ。そうだな」
 この大会に優勝しロベルトとブラジルに行く事を目標としていた翼の衝撃は、無論分からないはずがない。
 なのに知らぬ間に、自分の事に気を取られていたのが恥ずかしく腹立たしくもあり、頷くしか出来なかった。
 岬に気付かれはしまいかと、紛らしとは意識せずも翼を乗せたトラックが走り去った方角へ顔を背ける。
 と、そこに見えた光景に、オレは幹から背を起こし立ち上がった。
 「どうしたの、若林くん?」
 「すまん、岬。すぐに戻るから!」
 後ろに言い投げ、左足を引き摺りながら小走りに駆け出す。
 試合後緊張が解けズキズキと増していた痛みもなぜか忘れていたが、それすらもこの時は気付いてはいなかった。

 グラウンドから少し離れた駐車場で、あの明和のゴールキーパーと、先刻一緒に歩いているのを見掛けた大柄の男に追い付いた。
 二人は一台の車の脇に足を止め、オレも距離おいた所で立ち止まり物陰に身を寄せた。
 明和チームもとっくに宿舎に引き上げたはずなのに一人で行動しているのや、横にいる男は顔見知りのようではあったが二人のどこか堅い雰囲気が気に掛かり、咄嗟に追ってきてしまったのだ。
 男が車のドアを開け、中から和服姿の男性が降りてきた。
 男性は物静かな風貌ながら、思わず背筋が伸びるような目であいつの前に立ちざま、初動も伺わせずその方頬を打ち据えていた。
 鋭い音と同時に細い身体が大きく傾き、倒れぬまでも2、3歩足踏んだ。
 「なぜ言い付けを守らなかった」
 手荒な態度に反して、男性の低い声はオレのいる位置にようやく聞き取れる程の静かなものだった。
 様子から見て、あいつの父親なのだろうか。
 よろめいた背中を支えようとした大柄の男の手を拒んだあいつは、打たれた頬を押さえもせず姿勢を正した。
 「おまえの怪我はまだ完全に治り切っていない。今無理をすれば、取り返しの付かない事になるかも知れないのだぞ。まだサッカーをしてはならんと言っておいたはずだな」
 「はい――」
 歯切れ良く答える声音に反省は伺えたが、悔いは微塵も感じられない。
 男性にもそれは聞き取れたようで、さらに叱責を重ねる事はしなかった。
 「私の留守中だからと勝手を許して、困ったものだ。どうやってここまで来たのだ?」
 「…歩いて。母さんや皆は何も知りません」
 誰かが手助けしたのではと他の者が叱られると思ってか、あいつは強い調子で言い切った。
 「そうか」
 “こんな所まで”と軽い驚愕を含みつつも男性は一先ずこの話を打ち切り、身体を躱して道を空けた。
 「乗りなさい。すぐに帰って、一応病院で診てもらおう」
 後部座席へ促し、傍らで成り行きを見守っていた男に言葉を掛ける。
 「犬山。監督の方に、先に連れて帰るとお伝えしてきてくれ」
 「承知しました」
 早速宿舎に行こうとする男をあいつは一瞬引き止めるかに目で追ったが、何も言えず俯いて車へ向かった。

 「――待て!」
 オレは弾かれたように、車列の陰から飛び出していた。
 ドアの前であいつが振り返る。
 まずその顔に浮かんだ単純な驚きは、すぐに疑問に変わる。そしてこんな場面を見られたという羞恥の為か、埃に汚れた下にも白い肌にわずかに血気を上らせ、赤はしだいに怒りの色に転じていった。
 刹那の内の鮮やかなまでの変化と最後に見せた眼色の壮烈さに、オレは息を呑んだ。
 試合で見せた気迫そのままの、表面ではない内から熾る圧力のようなものに目を奪われ、状況や次なる動作にも頭が及ばなくなる。
 「健、友達か?」
 遠い位置で見合ったまま互いに言葉もないオレ達を、照らし合わるように窺い男性は尋ねた。
 「いいえ」
 あいつはすぐさまそう返し、しばらくして車から離れた。
 「後で、チームの皆と帰ります」
 「――分かった。気を付けて戻りなさい」
 男性は意外にもあっさりと承諾し、遣いに向かう矢先にオレが出てきた事で躊躇い立ち止まっていた男を呼び戻すと、車に乗り込んだ。

 車が見えなくなってからあいつは、オレに少しだけ近付き睨み付けてきた。
 先のありありと滲み出た感情は薄れむしろ無表情に近かったが、瞳の鋭さは変わらない。
 「何か用か?」
 「いや――、用という訳じゃ…」
 オレ自身、なぜ呼び止めてしまったのか正直困惑していた。
 しかし、車に乗ろうとするあいつを、どうしてか行かせてはいけないと思ったのだ。
 「用がないなら、いきなり声を掛けるな。だいたい、何を覗き見なんかしてる」
 馬鹿にしたみたいな口調に、らしくなく戸惑ってばかりだったオレもカチンとくる。
 「そんなんじゃない!」
 「じゃあ何やってた」
 「――おまえの事が気になってたから、それで…」
 「オレが?」
 問い返されたが、オレは上手く言い表す事が出来なかった。

 試合後ずっと、あいつが気になっていた。
 それこそは、胸に引っ掛かっていた不快な思いの一因だった。
 今日の試合は優勝は手にしたといっても、オレにとって全てに満足の出来る内容ではなかった。
 2失点の不満はもちろんあるが、それは明和が絶好の形を作り日向の闘志が競り勝った末の結果であり、決して恥じるプレイではない。
 だが許せないのはそんな事ではなく、試合の中で勝負を諦めてしまった自分がいたのだ。
 再延長戦後半、同点を狙う日向のシュートを辛くも防いだ後、足の痛みと極度の疲労に気力すらも奪われ、ついに立ち上がれなくなった。
 その時オレは“だめだ”と、思ってしまった。
 ほんの僅かにも試合を捨てた事が、大きな後悔を残している。
 そんなオレと引き比べ、あいつは最後まで勝利を諦めてはいなかった。
 終了間際の残り少ない時間にオーバーラップで攻め上がり、自らシュートを放った。
 それを岬にクリアされ翼のカウンターにあっても、ゴールを奪われ試合終了のホイッスルを聞くまで、勝負に対する気持ちは少しも揺るがずいたはずだ。
 あいつの決して引かない強さを感じ取り、腹の底から悔しさが湧き起こる。
 いくら“勝ったのはオレ達だ”と、自らの誤魔化しに繰り返しても無駄だった。
 試合には勝っても、本当の意味でオレはあいつに負けていたのだ。
 同じゴールキーパーで、これ程誰かを意識したなど初めてだった。

 だが当人を前に素直に話すには、些か自負が許さず口篭もるオレを、あいつはさっさと見限って歩き出す。
 その背に、オレの口はまた勝手に声を発していた。
 「おまえ、サッカーやめないよな?」
 こちらへ反転したあいつの顔は、前にも増して複雑な様相に満ちている。
 「…どうしてそんな事?」
 「その――、さっきの人に叱られてたみたいだし。おまえ怪我してたって、そんなに悪いのか?」
 男性の言葉を耳にするまで、あいつも怪我を押しての出場だったとは思いも寄らなかった。
 その事は当然驚きだったが、同時に言い知れない不安に包まれていた。
 加えてあいつの父親は、あいつがサッカーをしている事をあまり喜んでいないように見える。
 連れ帰られようとしたあの場で、もしかするとあいつはその怪我のせいでサッカーを止められてしまうかも知れないと思った。
 ここで引き止めなければ二度と合えず、闘う事も出来なくなるような気がしたのだ。
 そうなればオレは、あいつに勝てないままだ。
 そんな焦りのあまり、夢中で呼び止めていたのだった。

 「おまえには関係ない。そっちこそ今度会う時は、全力を出し切れるようにしておくんだな」
 あいつは不愉快そうに、オレの足元に視線を落とした。
 「その足でよくプレイ出来たものだ。そんな奴を相手に完敗して、このままで終わらせるものか」
 再びあいつは、真っ直ぐオレを見据えた。
 「若林、オレは絶対におまえには負けない」
 それは、オレこそが言いたかった台詞だった。
 同じ言葉をあいつから受け取った途端、不思議な感覚が全身を駆け抜け、胸に掛かっていた悔しさや苛立ちが、どこか心地よい高鳴りに変わっていった。
 あいつもオレと同じように負けたくないと、闘いたいと思っていた。
 それが無性に嬉しかったが、顔にするのもどこか照れくさくて、ついオレはフンと鼻先で笑ってしまう。
 「オレに勝てるつもりか?」
 「勝つさ」
 あいつはさも面白くなさげにまだオレを睨みながら、強く言い切った。
 「楽しみにしてるぜ。若島津」

 これから先、共に競い合ってゆける相手に、オレはようやく出逢えた気がした。
 

* * *

たとえばもし
あの時あの場所で巡り逢えなかったとしても
いつかどこかで、きっと出逢えただろう
それが遅いか早いか、どこであるかが違うだけのこと
まったく別の場所から、まったく違う道を歩んでいても
目差すものが同じならば、共に進み続けているならば
必ず互いに引き寄せ合い、出逢わずにはおかない
あいつはそう思える相手だった
<了>

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2003.5 源たけみや